島 利兵衛とサツマイモ栽培

 

島 利兵衛の業績

 島 利兵衛は、18世紀頃、長池で薬種問屋を営んでいた。利兵衛が扱った薬草の中に幕府が禁止していたものがあったため、九州へ流刑となった。 長池の言い伝えでは、1716年(享保元年)に流刑先から帰郷したとあるが、石田神社の古文書『琉球芋根元助力願口上書(1817年 石田神社蔵)』によると、利兵衛は1757年に赦免されて帰郷し、その後、流刑地で身につけたサツマイモの栽培方法(挿し木、少肥栽培、蔓めくり等)を地域の農民に教え、サツマイモ栽培の発展に寄与したと書かれている。

山城地域へのサツマイモの伝播過程

 山城地方でのサツマイモ栽培の記録は、利兵衛の帰郷より早く、1717年に書かれた蕃薯録(松岡恕庵著)には、山城地方で栽培されていた記録がある。 大正2年(1913年)刊行の京都府相楽郡誌に記載されている『薩摩芋植付理由根元の事(1844年)』によると、1717年に鹿背山の庄屋福島利兵衛が領主一条兼香にサツマイモを献上したとある。また、その前年には、サツマイモ栽培を教えるために、領主が薩摩から農民を招いたとされ、農民は、1年間福島利兵衛宅に滞在し、栽培法をすべて教えて帰国したとある。

利兵衛の石碑の建立

 大蓮寺にある島 利兵衛の石碑は大正元年(1912年)に建立されたといわれているが、大正2年に出版された相楽郡誌に、富野荘村が栽培の始まりという説があり、その根拠として石碑がある旨が記述されている。また、寺田村誌には、大正元年に、台石を設けて石碑を安置し、甘藷品評会を開催したとある。したがって、石碑はそれ以前に建立されていて、大正元年に整備されたとも考えられる。 長池に伝わる島 利兵衛の伝説は、実在した島 利兵衛の業績に、それ以前にサツマイモ 栽培に関わった人々のことが加味されてできたものではないかと考えられる。