長池の地形と地質

長池は、城陽市東部丘陵が木津川流域平地接する所に位置し、東部丘陵は地形、地質学的には、宇治丘陵、長池層と呼ばれている。長池層の堆積物は今から約200万年前に古琵琶湖から流れ出る古瀬田川によってもたらされたものである。

古瀬田川によって扇状地が形成された年代と過程

 琵琶湖はかつて、三重県の伊賀上野市付近にあった。それが、北上して現在の位置に至るまでに、京都府南部から奈良県北部の平地に湖水が川となって流出し、多くの土砂を堆積させた時期があった。
 その後の地殻変動で琵琶湖は現在の位置に移動し、湖水は瀬田川、宇治川として流出するようになった。
 この地殻変動は山城盆地を形成し、その中央を木津川が流れるようになり、中央の土砂は浸食された。
しかし、盆地とならなかった城陽市東部は、土砂が分厚く堆積した丘陵として残り現在に至っている。


新野池(長池)の形成と消失の経過

 

 平安時代の文学にも登場する新野池(贄野池、にえのいけ)は観音堂と寺田の間に存在し、南北は2㎞に及ぶ細長い池であった。上の絵図は大乗院雑事記に描かれた1485年頃の長池付近の地図である。この地図には、長池に相当する位置に『新野池 十八町池也』と描かれている。
 この池は旧木津川の流路が池として残ったものか、長谷川が北へ流れる過程で丘陵の縁に滞留したものと考えられる。おそらくは、流路跡の窪地に長谷川から水が供給され続け、池として永く存在し続けたものであろう。
 池の東部は洪積世の砂礫が分厚く堆積している丘陵地で、そこから何本か山川が流入していた。山川は、普段は水が流れていないが、大雨の時には川となり丘陵地の砂礫を池に堆積させたと考えられる。そのため、池は次第に埋まっていき、やがて消滅したと考えられる。
 豊臣秀吉が大和街道を整備するに当たり、池の跡地を宿場町とした。これが長池宿である。

大溝(おおうなで)の場所と形成時期及び役割

 東部丘陵から流れ出る山川は平地部に大量の土砂をもたらしていた。これは、稲作を中心とした農業に取って好ましいものではなかった。そこで人々は、山川が平地に流れ込む手前に大がかりな溝を掘り流れを北に導き田畑を守ろうとした。
 宇治市から城陽市にかけて、仁徳天皇の頃に栗隈の大溝(おおうなで)をはじめとして、用水路整備の記録が数多く残っている。上の図は、1760年頃の長池の地図で、大きく湾曲して大和街道を横切っている薄茶色の曲線が川を表している。地形が右上から左下に傾斜していることから、この不自然な流路は明らかに人の手で整備された水路と考えられる。